親鸞聖人のご恩を偲ぶ報恩講が厳修

 親鸞会では、親鸞聖人がお亡くなりになった十一月二十八日を中心に、聖人のご恩を偲ぶ報恩講が厳修される。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び報恩謝徳をなさんと思ひて、聖人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心の輩もあるべし。以っての外の大事なり」(御文章五帖目十一通)
 親鸞会に限らず、御正忌(報恩講)に参詣の中にも、信・不信あることを教え、現在、救われていなければ、後生は一大事であることを警鐘乱打なされている。
 にもかかわらず、真宗の道俗は、真剣に聞法しようとしない。
「親鸞聖人は、私達の身代わりに求めてくだされたから」
「我々は、何もしなくても助けていただけるのだ」
「だから、今さら、真剣に求める必要はない」
 聞こえて来るのは、無責任極まりない声ばかり。親鸞聖人九十年のご苦労に、二つあることを知らないからだ。
 九歳で比叡山に登られ、二十年間の厳しい親鸞聖人のご修行は、ご自身の、一大事の後生の解決のためであったのだ。
「独生独死 独去独来」(釈尊)
 一人で生まれて来たのだから、一人で死んで行かねばならぬ。聖人が命懸けで求道されたからといって、我々の後生が救われるのではない。
「後生は一人一人のしのぎなり」
と、蓮如上人も仰有っているではないか。信仰に、身代わりがきくはずがないのだ。
 では、なぜ、我々は聖人のご恩徳を讃えるのか。
 聖人二十九歳、信心獲得されてからのご辛労は、ひとえに私達を導かんがためであったからだ。
 弁円の剣の下をくぐられ、石を枕に雪を褥に休まれたのも、身命を賭して阿弥陀仏の本願を伝えて下された一例である。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」
恩徳讃そのままのご苦労なかりせば、今日の親鸞会も我々もなかったのである。
「たとえ大千世界に
 みてらん火をも過ぎゆきて
 仏のみ名を聞く人は
 永く不退にかなうなり」
と、火中突破の覚悟で、真剣に聞法せよ、必ず絶対の幸福になれる、と教え徹して下されている。
「七昼夜の時節(報恩講)に相当り、不法不信の根機に於ては、往生浄土の信心獲得せしむべきものなり。聖人の御正忌の報恩たるベし」(御文章四帖目八通)
 最高のご恩返しは、聖人のみ教えに従い、一日も早く獲信する以外にない。
 親鸞会の報恩講に参詣させて頂こう。


浄土真宗 




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